あかねの行路 (蜉蝣と疾風)




お頭から新しい着物を仕立てて良いと言われたので、疾風とともに町に出向き反物を買った。

うちから卸している鯨の髭を買い取っている馴染みの呉服屋ではあるから、布自体は良いものが安く手に入るようにはなっている。しかし一反で買い、更にそれに紋様を入れて染めてもらうとなればそれなりにいい値がするものだ。それでもこれから死ぬまで、もしかすれば海の底に沈んでいく時まで身に纏うことになるかもしれないものであるから、こうして仕立てる着物は、いわゆる一張羅のようなところもあった。お頭がはっきりとそう言ったことは一度もないが、ただいつもにこにこと笑って「いいのを買えよ」と金を渡してくれるお頭の心遣いを汲ませてもらい、そこそこの布を二人で買っていた。

反物が仕上がるまでは一月かかる。

仕上げたのちは水軍館まで持ってきてくれるので、余した金でお頭へのみやげの酒と、留守を頼んだ由良四郎と鬼蜘蛛丸への少し品の良い甘味、義丸や舳丸、その下にわらわら続く水夫たちには安くて手頃なくるみと銀杏を買い、帰途につくことにした。




「行きつけが海沿いの町で良かったな」


来始めた頃はまだ陸酔いしてなかったしよお前、と言ってばしんと背を叩かれる。


「おい叩くな、振動で吐く」

「アッよせ、袋出すまで待て」


ウップと頬を膨らませて睨むと、疾風は慌てて叩いた手で俺の背をさすり、もう片方の手で胸元に入れていた袋をまさぐった。

けれどまだ大丈夫だと制すれば、まじまじ顔を覗きこんで  


「あ、ほんとだ。そんなでもねえな、よし歩け歩け」


と言ってまたばしんと背を叩いてくる。

わかるもんだな、と思うが、思い返せば俺が陸酔いに悩まされ出したころからずっと疾風が俺を覗き込んでいるのだ。へたな仮病は通用しないのだと改めて思い至る。

こうして、疾風とともに反物を買いに来るのももう何回目だろうか。

役が上がるたびにこうして連れ立っているが、不思議とこいつとは選ぶ着物の色と柄がかぶることがない。おおよそにおいて俺と疾風の好むものはほとんどがそうだった。

目指したものもまた別だ。

俺は舵取り。 疾風は手引。

切磋琢磨と言えば聞こえはいいが、俺たちのどちらも生来の負けず嫌いだった。

俺も疾風も、こいつにだけは抜かれてなるものかといつも互いを気にしていた。抜かれては追いつき、並び、また抜き返しを繰り返していたら、いつの間にか俺と疾風はいつもほとんど、同じところに立っていた。目指したものはそれぞれ違うからぶつかることもなく、互いの進路を妨げるようなこともない。けれど目指したものが指す、更にその先に見えているものはいつも一緒だった。それは、俺たちを憎みあったりいがみあったりさせることもなく、こうしていることができる一番の理由ではないかと、そう思うことがある。まあ、言わんけど。


「俺たちが戻ったら次は鬼蜘蛛丸と義丸が買い付けに行くんだとよ」

「へェ」


潮風がやわく吹く帰りの道すがら、ふと疾風が話を持ち出す。

それに相づちを打つと、オメーちゃんと聞いてんのかよ、と鼻を膨らませるので、聞いてる聞いてると二度も相づちを打つはめになった。


「鬼蜘蛛丸が山立になるのはともかく、義丸が鉤役だとよ」

「いいことじゃねえか、あいつに向いてるってお前ェもよく言ってたろ」


むしろ義丸の仕事ぶりを思えば遅いくらいだ。

お頭の考えもあってのことだと思うが、鬼蜘蛛丸が山立になるまで待っていたふしもあった。先代の山立(と言っても鬼蜘蛛丸の親父だが)の弔いもあったから、色々と間が良かったのか悪かったのかは計りかねる。


「……しっかし、あいつらが揃って上がるとはなあ」


疾風は少し物言いたげな面持ちで、沈み始めた太陽に目をやった。

何だかんだと手をかけてきた義丸がいよいよ鉤役に任ぜられた。目出度いことだ。けれどそれと同時に、本当に、誰より先に海に沈んでもおかしくないところに立つことになった。

弟分が何人もそうやっていなくなっていく。俺も疾風もなくしたものを数えたらとても手が足りない。それでも数えることをお互いやめたことはなかった。ひとつひとつ刻むように覚えていったら、そのうちそれが当たり前になった。なくすかもしれないものを忘れぬようにと、よく顔と名を覚えるうち、お陰様で、ぱっと見た荒くれの面やらきな臭い野郎の面まで一見で覚えるようになってしまった。怪我の功名とでも言えばいいのか、笑い草だ。

鉤役になれば義丸は己の須磨留を持つようになるが、それは己を引き上げてはくれない。義丸が沈むとき、それを引き上げる男は、おそらくいない。これまでの鉤役が一人残らずそうだったように、義丸もいつかそうして海に沈んでいくのかもしれない。そうではないと思いたいが、どうなるかはわからない。板子の一枚下はいつだって俺たちには見えないのだ。

ざっ、ざっ、と草履が砂を食む。

長く、影が伸びる。


「祝い酒にはとびきりのを用意してやらんと」

「そうなァ」


ず、と疾風は鼻を啜った。嬉しいのとさみしいのと何だかどうにもやるせないのとが混じった声で、盛大にやってやるかァと笑った。

そうだな、と俺も笑った。

俺も同じだった。祝いたい気持ちとこれからますます過酷を極める弟分の行く末を思う。手前自身のことすらわからないのに何をと思うが、それでも。それでも思うのだ。

俺と疾風は海でも陸でも隣に立つ。けれど鬼蜘蛛丸と義丸は、漁となれば海と陸とに分かれ、戦ともなれば艏と艫とに分かたれる。鉤役の代わりはいるが山立の代わりはそうはいない。これから先、義丸は先駆けの者として渦中に飛び込んでいき、鬼蜘蛛丸は後駆けの者としてそれを見つめ続けることになる。よりにもよってと思うが、おそらくはそれが義丸の望みだったのだろうと、俺は思う。あれはきっと、鬼蜘蛛丸のためにしか張る命がない。

背を競い、歯が抜けたと笑い、毛が生えたと驚き、貝を拾いすぎては叱られ、飯を食っては遊び、白浜を転がるように駆けてひとつの小舟に乗り、笑いながら漕ぎ出していった幼い二人はいつだって俺たちの目の中、頭の奥に残っている。


「蜉蝣よォ」

「おう」

「次は酒の買い付け、付き合えよ」

「……おう」


疾風の肩に焼けたように赤いとんぼが止まる。

耳元で羽音がしたのか、つと肩に目をやったあと、俺を見て、秋が来てら、と笑った。

目もとと鼻面が赤らんでいたのは夕日のせいにしてやろうと思う。

俺の目玉がひとつなくなった代わりに、自分の目玉ふたつと俺の目玉ひとつ分の涙を流すようになった疾風は、もう一度だけ、すん、と小さく鼻を啜った。




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